固く閉ざされた校門

 自転車で町を走ってると、小学校の前を通ることがある。懐かしい光景でもあるはずなのだが、なにか違和感がある。それは、固く閉ざされた校門と、「不審者がいたら・・・」「用事のある方は・・・」のようなメッセージである。というのも、私が小学生の頃には当然そんなものはなかったからだ。言うまでもなく池田の児童殺傷事件のせいでこんなことになったのだが、そのことを充分承知していても何となく違和感を感じる事を禁じえない。

「校門の中は守られた世界、外は誰がいるかわからない、殺人鬼がいるかもしれない恐ろしい世界」なのだろうか?そのようなメッセージを私はこの光景から感じてしまう。そんなことを考えていたらテレビから次々と子供を襲う暴漢のニュースが流れてきた。言うまでもなくその内の一つは宇治市の小学校に包丁を持った男が侵入して子供二人を怪我させたというものである。

池田市は、大阪の都心部からもさして離れておらず、また大阪大学ダイハツの工場もある街である。しかし宇治市は、お茶の名産地であることから分かるようにたいがい自然の豊かな田舎。あんなところでも(失礼な書き方ですが)こんな事件が起きるものなんだなあと思ってしまった。もちろんこれは私の偏見であり、犯罪は田舎、都会を問わずに起こるものであるが、なんとなくぎすぎすした街で残虐な事件が多く起こり、のんびりした田舎ではみなさんほのぼのと暮らしているはずだという勝手なイメージを持ってしまいがちだ。

ここまで大事件として報道されてはいないが、伊丹市や八尾市でも児童に付きまとったり暴力を振るったりする事件は起きているようである。その地域に住んでいる知人から聞いた話だけれども。

 なぜ、子供が狙われるのか?単に子供が弱いからではないだろう。性的倒錯?もちろんその場合もあるがそういう事件ばかりではないと思う。いつのまにか、「子供」は実際としての「子供」から社会の象徴としての「子供」になってしまったのだ。ただ「子供」を傷つけることによってのみ、「社会全体」が傷付くと言う意味における象徴。ここまで高齢化が進み、老人介護が問題になると、例えば誰かが老人を殺したとしても社会はあまりショックを感じたり悲しんだり憎んだりしないかもしれない。不謹慎な話ではあるけど。正直なところ、誰もが老人を負担に感じている。仮に彼等への愛情や尊敬が存在していたとしても、やはり負担は負担として存在する。

 しかし子供を殺したとしたら、ほとんどの人は悲しんだり犯人を憎んだりするのだ。同じような年中流れる単純なニュースに飽きもせず怒っている人間がたくさんいる。犯罪者というのは往々にして世間に注目されたいのだから、子供を殺す事は充分見合う犯罪になってしまっている。つまり子供が襲われる原因の一端はテレビの前で児童虐待や児童に対する性暴力の事件に激しく怒りや憎悪を感じている視聴者にもあると言える、と言ったら言い過ぎだろうか。犯罪者というのは人々が嫌い、恐れることをやりたがるものなのだからあながち間違ってはいないかもしれない。