デモ

http://d.hatena.ne.jp/kogkog/20040514#p1
を読んだ。私がデモあるいはそれに近い公道上で何かを訴えるような活動に参加したのは3回きり。1度目は、昭和天皇が病死した後、大阪であった御堂筋パレード。「ひろひと死んでもええじゃないか!あきひとは普通のおじさんになってもええじゃないか!」と叫びながら行進。2回目はこの前のクリティカルマス。こちらは、自転車を交通の一部として正しく認識し、車と自転車が共生していける社会を目指そうと言う趣旨。3度目はその次の週のアースデイライド。環境に優しく生きる手段の一つとしての自転車の利用と言う考え。

基本的に、3度とも友達からの紹介、誘いがきっかけだった(笑)。主体性が・・・あわわ。

 こぐ氏の論であるが、

>他人の行うデモをみるときいつも、反秩序、反体制活動、といった第一印象からなぜか自由になれない。

 こぐさんには一度お会いしたことがあるが、私よりちょっと年長の方。世代がちょっと違えば体験も異なると思われる。例えば私の母は大学が学生運動で封鎖されて授業を受けられなかったそうだ。母自身の政治的関心は薄かったようだが、それでも大学の封鎖という形では学生生活に影響を受けたと言うことになる。こぐさんはそこまで年上ではないだろうが、私と私の母の世代の間のどこかに属するはず。多分にデモや政治的活動をする人達の嫌な面を多く見ることになった世代なのではないだろうか。私の世代ともなると、デモをめずらしいものとして見てしまう。

 私が観る限りの印象としては、デモをする人達は反秩序、反体制ではなく、彼らが望む秩序、彼らが望む体制を求めているだけだと感じる。支配の否定ではなく、彼らに都合の悪い支配の否定であり、彼らに好都合な支配の肯定がそこにある。

>情報技術の普及により、発信のコストは逓減し、それゆえインターネット上には有害無益な言説も溢れかえっている。
>ネット上に発言しただけで、それで世の中に何かはたらきかけたような気になることは大いなる勘違いかもしれない。
>勘違いであるばかりでなく、ネット上の発言が現実の行動の代償行為となってしまうことは危険でさえある。

 ネット普及以前より新聞、雑誌、書籍の中に有害無益な言説は溢れかえっていたし、今だってお金を払って購読する紙製の大新聞の中にもそれらが多数見られるのである。

たとえば、2004年2月号のBICYCLE CLUBのP.101にM5コンパクトが紹介されていて、「この奇抜な小径車はこう見えても120km/h以上速度が出る。なのに畳ってのがいいね。」と書かれている(笑)。どうやってM5コンパクトで120km/h以上の速度を出すのだろう?もしBICYCLE CLUBの編集部のどなたかがほんとにM5コンパクトで120km/h以上を平地で出せるのなら是非ともその脚力で何らかの自転車競技に積極的に参加して、日本の自転車競技界に貢献してほしいと強く願う次第である。雑誌を作っているどころではないのだ、そんな脚があるなら。なおBICYCLE CLUBは税込み700円の月刊雑誌だ。

M5コンパクトはこんな自転車 http://www.loro.co.jp/rec-m5compact.html

>デモをする人々の投げかけを世の中が受け止める。
>その積み重ねが、いつか、世の中を変える力となっていく。
>そのような過程が実現することを私は期待したい。

尾崎豊のライブ盤を聴いてたら、MCで「弱い犬ほどよく吠えるって言うけど、何もしないよりましなんだぜ〜」と。訴え続けること、それは大事なことだと思う。