だらだらぐうたら論

 だらだらぐうたらした生活をしたいと言う願いを持つ人は意外と多い。現代社会の殺人的な忙しさを思えばそれも納得がいく。前にも書いたが京都の鞍馬寺のパンフレットには「心を亡くすと書いて忙しいと読みます。気を付けましょう。」と書かれている。確かにスケジュールが忙しくなると気持ちは殺伐となりがちなのは納得できる。だらだらぐうたら生活に憧れるのは自然とさえ言える。
 さて私個人の話にもどると、はっきり言ってかなりだらだらぐうたら生活偏差値は高いと思われるのである。基本的に少し忙しくしたり無理をすると機能停止して布団から出て行かなくなる体質なので、ほぼ必然的にそうなるのだ。小学校では登校拒否になりかかったりしたし高校はあと一日休んだら留年するところだったし大学は常人より随分長く行っているし拘束時間が長い仕事は面接に通ったことすらない。このことについて私がどう感じているかはマイルス・デイビスが音楽とはなにかとたずねられて感想を述べたのと全く同じである。

「それは、祝福でもあるし呪いでもある。」

普通これくらいの年であれば野心とか出世願望とか物欲とか老後への準備などが長時間の労働に気持ちを駆り立てたりするものだが、私の出世願望と言うのは小学一年生の時に学研の本でケネディ大統領が暗殺されたことを読んだ時点で崩壊しているのである。「偉くなっても、ピストル一発で死んじゃうんだ。」と思うとそれ以後何者になろうとする気もなくなってしまったのだ。
また、私は幼少時代の半分くらいは大阪の下町で昼間おばあちゃんに預けられて育ったのだが、おばあちゃんにはおばあちゃんの生活があるわけで、必然的に市場への買いものや人付き合いに連れて行かれることになる。そこでは生身の老人と言うものに否応なく出会うわけで、おかげで長生きなんかするものじゃないなあと思うようになった。それでも幼少時の印象というのは幾分薄れるものでもあるので、高校くらいになると「今死んだりしたら勉強ばかりさせられて無駄死にするみたいで嫌だなあ、ランディ・ローズが26で死んでるから自分も寿命は26歳くらいがいいなあ。」と思うようになった。それで、26歳くらいになるとそれなりに自由な時間を楽しみもしたし、もういいやと思うようになった。しかし幸か不幸か一般人の私にはランディのようにヘリコプターに乗る機会もなかったし、仮に乗ったとしても墜落するとは限らない。そんな訳で望むと望まざるに関わらず生き長らえてしまったのであった。

傍目から見るとかなり強い物欲と食欲を持っているように見えるかもしれないが、実はそんなに美味いものを食いたいという欲求が強い訳ではないし、物欲の対象もR800を手に入れた後はさして強烈なものはないのである。タイヤが減ったらタイヤを換えて、とかライトが切れたらライトを換えて、とか当たり前のことがほとんど。第一そんなに自転車や高級パーツがほしかったらもっと働いてますって。

こうなると人間いよいよだらだらぐうたらしてしまうのだ。人に何を言われても気にしない能力というのは幾分必要ではあるが。

カラヤンのNew Year Concertを聴きながら、珈琲飲みながら、こんなぐうたらな日記を書いてたりする今日この頃です。