TAO 永遠の大河 2巻

Tao永遠の大河〈2〉―バグワン・シュリ・ラジニーシ老子を語る (1980年)をひさしぶりにぱらぱらと読んでみたり。
老子の本だが、この分厚い本には老子以外のお話もたくさん含まれている。
たとえば、輪廻転生とか生まれ変わりとか過去生とか…
ことがことだけに、実際のところはおいらにはわかったことではないのだけど、
世界観的に好きだったりする。

思考というのは物だ
さまざまな思考の群れが自我(エゴ)となる
あなたが死ぬと、その思考の群れだけが解き放たれる
そして、思考や、欲望や、感情
あなたがやり、また自分がやったと思ったあらゆること
そして、夢と希望と欲求不満のその群れ―
その群れがまた別な子宮にはいり込む


この群れにはひとつの中心がある
その中心が自我なのだ
もしふたたび生まれてきたくなかったら
あなたはこの生を生きている間に
思考の群れというのは"一元的現象"ではなく、ただの群集であり
そこには何の中心もないのだということを知らなければなるまい
あなたは、原子的な思考のひとつひとつを知らなければならないだろう
思考というのは原子のようなものだ
もし気をつけて観察すれば
あなたはどの思考もほかの思考とは別々だということを
見ることができるだろう
二つの思考の間には
ひとつの幕間、ひとつの空間(スペース)がある
それらは一緒につながったものじゃない
それらがつながって見えるのはあなたがあまり気をつけていないからだ
それはちょうど人が手に松明を持って
その手をぐるぐると勢いよく動かすようなものだ
あなたには火の輪っかが見えるだろう
そんな輪は存在しやしない
なぜならば、その松明はひと時について一点にあるだけだからだ
ほかの時にはほかの点にある
そんな炎の輪は存在しやしない
だが、松明が
あなたにその隙間が見えないほど早く動くために
ひとつの輪がみえる

p.190-p.191より


そしてここからは、このメタフィジカルなリアリティーに対して、どのように接していけば良いかが語られているのでした。

思考というのはすごいスピードで動く
その早さが、それらがつながっている
輪っかができるというような錯覚を生み出す
しかし、それはただの錯覚にすぎない
それを乗り越えるには二つの道しかない
ひとつは思考の運動をゆっくりしたスピードにまで落として
それがあまり早く動きすぎないようにすることだ
それらを少々落ち着かせるがいい
私が
「あせるな、緊張するな
 ゆっくりとしたペースで動け、緊張しないで、急がずに動け」
ということを強調するのはそのためなのだ
というのも、もしあなたが急がなければ
思考もあなたに逆らうわけにいかないからだ
それらはあなたの一部なのだ
もしあなたに深い忍耐があれば
思考もあなたより早く動くわけにはいかない
それらはゆっくりになる
思考がもっとゆっくり動けば
松明がもっとゆっくり動けば
あなたにもその輪が存在しないということがわかる
それはただの見かけにすぎなかったのだ
思考がゆっくり動けば
あなたはそこに隙間があることを
思考というのは原子であって
それらを一緒につなげているものなど何もないということを見てとれる


だから、ひとつの方法はスピードを落とすことだ
そして、もうひとつの方法はもっと醒めることだ


もしもっと醒めたならば
あなたはより透徹したヴィジョン、より透徹した洞察を持つ
両方から働きかけるがいい
もっと気をつけなさい
眠りこけた人間のように動かないこと
夢遊病者にならないこと
ところが、誰もがそれをやっている
あなたは、生の中をまるで眠りこけているかのように動いてゆく
あなたはさまざまなことをやる
が、醒めているのはほんの一部で
あなたの99パーセントは眠り込んでいる
あなたは自分が何をやっているのか
なぜそれをやっているのか
それがなぜ起こっているのかわからない
あなたはまるで何かに催眠術をかけられているかのように
どこまでもどこまでも進んでゆく
それは大変な催眠術だ

p.191-p.192より
ゆっくりと、醒めて生きること。簡単そうで、難しそうで、簡単なのか難しいのか、あるいはそのどちらとも言えないのか。


ところでTAO永遠の大河、1巻から4巻までまとめて復刊してくださいよ、めるくまーる様。
復刊ドットコムで投票してみようかな。
ああそれから、ラジネーシかラジニーシかどちらかでまとめてよね、検索しやすいように。