廓然無聖

 なんとなく、廓然無聖という言葉の意味を調べていました。

梁の武帝達磨大師に尋ねた。
「如何なるか是れ聖諦第一義」
達磨大師が答えて曰く、「廓然無聖」と。

http://soujiin.com/index.php?%B3%C7%C1%B3%CC%B5%C0%BB%A4%C8%A4%CF%A1%A9

また、川上雪担老師が次のように詳しく解説されておられます。

梁の武帝達磨大師に問う、如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く、不識。
 有名な達磨さんの不識です。
 梁の武帝五胡十六国の時代ですか、一代に建国し孫の代にはもう滅んでしまった、仏教に入れ揚げたせいだというが、敗戦を迎えてさへ敵の王が一睨みでちぢみ上がったというから、なかなかたいしたものだった。仏教の故かも知れない。
 僧をもてなし仏塔を建て、自らも放光般若経というお経を講義した。天花乱墜して、地黄金に変ずという境地を見た、これぞ聖諦俗諦の第一義、きまりっていうんなら、それっきりのものを、どうしても確かめてみたい、三重丸つけて貰いたいわけです。
 そこへのこのこ達磨さんがやって来た。
 なにしろほ仏心印を持つという、活仏だ、ようし引っ張ってこいってわけで、
 如何なるか是れ聖諦第一義。
 とくとくと仏教辺の羅列とおしまい、いやおまえさんっもたいしたもんだと、頭なでてくれると思いきや、
 廓然無聖
 がらっとしてなんにもないよ、或いは個々別々っていうんですか、どこにもピラミッドなんかないです、まっ平らの平地です。
(そんなはずはない、だって仏教ではないか、地球より重い人間さまより、まだでっかいってのに。)
というわけです、なにかいいことないと納まらぬ気がしている、
(なんだ、活き仏だっていう、こいつはいったい何ものなんだ。)
 朕に対する者は誰そ。おまえはだれだ。
 磨云く、不識。知らない。
 帝かなわず、終に江を渡って少林に至り、面壁九年。
 知らないって、そんなのおまえ、無礼であろうってわけです。そりゃ今これをごらんになっている、おそらく百人が百人、無礼であろうの 梁の武帝です。そうでない人はこの則耳たこだったり。

http://www17.plala.or.jp/tozanji/bn/darumakakunen.htm

がらっとして、何もない。がらっとして、何もない。何も何もない・・・。