動物裁判 西欧中世・正義のコスモス 池上俊一

 12世紀〜18世紀までのヨーロッパ各国で、動物が被告となる裁判が行われていたという驚愕の歴史。

動物裁判 (講談社現代新書)

動物裁判 (講談社現代新書)

子どもを食い殺した豚が裁かれて死刑にされるのは心情的にわかるけれども、
ネズミや昆虫に破門宣告とか(毛虫はキリスト教徒なのか?)、
獣姦の相手にされた動物を、飼主と同じく火あぶりの刑に処すとか(いい迷惑だ)、
無茶苦茶曲芸の上手い馬を悪魔の手先として主人と一緒に火刑とか、
およそ現代に暮らす私達の理解を超えているのである。


動物虐待の一形態と思いきや、ちゃんと動物の側にも弁護士がつけられている。
たとえば、1522年ないし1530年頃、オータン司教区で穀物を荒らすなど猛威を振るったネズミに対し起こされた告訴では、
バルテルミー・ド・シャサネがネズミの弁護をしている。
シャサネは、後にエクスにあるプロヴァンス最高法院の院長となった著名な法律家とのこと。
第二の召喚期間が過ぎても出頭しないネズミ達(当然だが)に対するシャサネの弁護の様子が次のように記されている。(p.89)

 この第二の召喚期間がすぎても、まだネズミたちは出頭しなかったので、つぎにシャサネがもちだした理屈は、ネズミたちにとっての裁判所までの旅の長さと苦難、各道端で虎視眈々とかれらをねらっているネコの脅威、そのために余儀なくされる遠回りなどであり、それらについて長口舌を振るった。この欠席を正当化し延期を要求する抗弁もつきると、かれは人情に切々とうったえかけはじめた。ネズミ一族をまとめて断罪するのは、あまりにかわいそうだ。親の不始末をおさない子供のネズミにもつぐなわせるのは、人間性に欠けるではないか、云々と。

た、確かにシャサネの言うとおりかも…。
さらに、「スイスの氷河を破門」とか、教会の鐘が裁かれるとか、もはや動物ですらないという次元の裁判もあり…。


 第二部では、自然の征服、異教とキリスト教の葛藤、自然に対する感受性の変容、自然の観念とイメージ、合理主義の中世等の視点から、動物裁判の背景が描かれているのだけれども、なにしろ第一部が強烈すぎて、読後感として第二部は霞んでしまいがち。


兎にも角にも、衝撃的な一冊。


新書300冊計画の37冊目。
なお、ほんとに300冊までこのカテゴリ続けるのかとの問いにはお答えできません(苦笑)