あえて瀬尾氏に反論した理由

先日私が書いた、青山学院大学国際政治経済学部助教授の瀬尾佳美の「東京を走る自転車はカラスより迷惑である」についての批評、「東京の瀬尾佳美はカラスより迷惑である」http://d.hatena.ne.jp/kuyu/20040603をぽた郎さんがぽた郎の超軟弱形而上日記にてトラックバックしてくださっています。
http://www.potterist.com/potarodiary/diary3/000718.html

 私の書いたものは瀬尾氏の書いた内容への反論、もしくは矛盾点の指摘(のつもり)ですが、ぽた郎さんは「瀬尾がその言説を(おそらくよく考えずに)自分の勤務先のサーバを利用して流布せしめたこと」を社会人としての常識という観点から批判されているようです。確かに、青学にしてみましてもこんないい加減な文章を勝手に大学のサーバーを使って流されては迷惑でしょう。最悪の場合は大学への社会的評価や人気が下がることにすらなりかねませんからね。

 ただし、ぽた郎さんが書いている

>すなわち,問題の本質はここにあります。
>彼女が自分の社会的地位を過剰に(あるいは不正に)利用して,
>あたかも公的=パブリックに,
>極めて私的=プライベートな言説を述べたということです。

という部分については、私の見解は少し異なります。瀬尾氏は自らが環境学者であると主張した上で社会環境の一部としての自転車を(たとえ間違っているにせよ)論じ、自転車のライセンス制を(無茶苦茶な論旨であろうと)主張しているので、私的な言説であるとは認め難いです。確かに公共の場に出せるレベルの文章ではないという印象を多くの人々に与えるかもしれませんが、それでもこれは公的に公的な言説を述べたということになると思います。

公的に私的な言説を述べて問題になることも確かにあります。今のブッシュの親父が大統領だった時に(パパブッシュというやつですね)、飛行機の機内食ブロッコリーが出されたことがあったのですが、パパブッシュはブロッコリーが大嫌い。記者がいるのを忘れて、「私は合衆国大統領だ!私はブロッコリーを食べない!」と言ってしまったそうです。飛行機から大統領が降りると、そこにはブロッコリー関係業者達のトラックの抗議の行列が・・・。

ブロッコリーを食べるか否かは明らかに私的な問題であるけれども、大統領ともなるとそれすら報道されれば公的性格を帯びてしまうということですね。

前述の瀬尾氏の文章の場合、自転車をライセンス制にすべきか否かというテーマ自体が社会的重要性を帯び、なおかつ瀬尾氏の専門分野とも重なる領域であるために、プライベートとはどうしても言い難く思います。

感情的な表現が多々見られるので私的であると思われたのかもしれません。しかしながら瀬尾氏はサイトの中で、明らかに経済学者の専門である年金問題を論じ、読者とのやり取りの中で「投稿者欄に主婦と書いてあるのを見た段階で、私はその投稿は読みません」と発言しています。これは投稿を内容ではなく身分、職業によって判断する感情的な行為だと私は認識しています。だからこの人は公的な場で自分の専門分野についての意見を述べる時でもこのような感情的発言をする人なのだと思いました。だから感情的=私的というわけでも(彼女の場合)なさそうです。

>大学という組織は「学問の自由な自治」という名の下に,その管理が多少ゆるいのかもしれません。

個人的には管理はゆるいほうがいいと思います。たとえゆるいことで今回の瀬尾氏の発言のような粗雑な文章が大学のサイトに載るという副作用が時々は起こるとしても、少なくとも言論に関する限りは管理はゆるいほうがいいと思います。その教授の言説に本当に問題があれば、学生や学会が自ずから離れていき、教授の職を維持できなくなるということになると思います。たとえ今までそうでなかったとしても、これからはもっとそういうふうになっていくだろうと予想しています。

>少なくとも大学人の「理論と言説の説明責任」というタテマエだけは,放棄しないで貰いたいものです。

全く同意します。多くの指摘の中から事実だと考えられるものについては受け入れ、アイデアを練り直していけば、何らかの建設的な結果を生んだかもしれません。最悪でも瀬尾氏自身が正しい事実に気付き、今までの考えが過ちであったことを知り、新たな可能性を模索することができたでしょう。

>そしてこれは,「反論するに値なし」と思っていてもこれに反論をせざるを得ない良識的な方々の,恐らく共通の認識なのではないでしょうか。

「良識的な方々」とあるので、多分Qyouのことは意図されてはいないと思うのですが、日記を読まれる人々の中にはQyouが含まれているように思われる方もおられるかもしれません。
だから念のために、私は「「反論するに値なし」と思っていてもこれに反論をせざるを得ない良識的な方々」ではないことを説明させていただきます。

まず、私に言わせれば「反論するに値しない」と言うこと自体が一つの抗議であり、反論なのです。たとえ論として成り立ってなくても、自分が同意できることに対しては「反論するに値しない」という表現が使われることはほとんどないからです。

それとは別に、私はたとえ「反論するに値しない」と言われるようなことであっても「反論する価値はある」と考えています。アドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツの宣伝相、ゲッペルスが言った「嘘も100回繰り返せば真実になる」という言葉があります。くだらないと思って誤った言説を放置しておくと、知らない間に人心に大きな悪影響を及ぼすということが起こり得ます。

また、社会的地位がもたらす影響の大きさについては理解しますが、私個人としては、たとえこの意見が作者の社会的地位や立場が書かれていない個人のサイトで扱われていたとしても、何らかの批判はしていたはずだと思います。もし私のところまで情報がとどいていたのであれば。

 しかし歩行者として歩いてる時に後ろから走ってきてチリンチリン鳴らす自転車には私も辟易しています。後ろを振り返ってリキラリアートしてやろうかと3回に1回くらいは思います。下がアスファルトでなかったらホークウォリア-のように肩からジャンピングタックルしたいところですが・・・。

 でもナンバープレートは絶対嫌だ。空気抵抗めちゃくちゃ増える・・・。