京見峠の歴史について

 京見峠にあった看板より転載。

 太平記に、延元元年(1336)、後醍醐天皇方の兵が足利尊氏らとの洛中合戦にあたり京都への北の要所としてこの京見峠に陣をはったとある。北山・西山の諸峰を左右に見て峠に立てば名のとおり、眼下に船山や釈迦谷山をはるか前方に京都市中を一望できる。
 この道(長坂)は北国丹波方面とを結び、室町時代には関所もおかれた古くからの要所であるとともに峠の大木を山の神としてまつる庶民信仰にも重要な役割をはたしたことが伝えられている。

                 京都市


 うつせみの寂しさゆえにおく山の
 辛夷は白く鎮もりて咲く


 この碑は在京の詩人島岡剣石氏が辛夷の花の咲くこの峠で感銘を受けて詠まれた歌を鞍馬石に刻したものです。

    昭和五十三年十月
          京見峠歌碑建立委員会

 山中の細い一本道、京都から北への往来には要所だったのでしょう。道中のほとんどは見晴らし自体はあまり良くありませんが、途中何箇所か素晴らしい眺望のところがありました。庶民信仰に重要な役割をはたしたと書かれていますが、京見峠茶屋の神棚や奥の部屋の仏壇、峠から先に進んだところにあった厳島神社など、いずれも強いフォースを発していました。やはり地の気が強く信仰の篤いところなのでしょう。都の北〜北西を守るにふさわしい山々。