ランナーの気持ちが分かったような気になる

 もちろん、ただ分かったような気になっているだけ、という自覚はある。
走ることについて語るときに僕の語ることを読んだ。自転車に乗る人とランニングをする人の層というのは、結構重なっているような気がするのだけど、あいにく私はランニングは全然しない。実際にランニングしてて、マラソンとかデュアスロンとかトライアスロンを志す人のブログなんかを読んでも、何が面白くてわざわざ長距離を自分の足で走ろうというのか、全然わからないのである。わからないというより、体質の問題かもしれない。走ることって自分にとっては気持ちよいことでないのだ。


 しかしながら、走るのが好きな人にとっては、走ることは生きることの大事な一部分で、何かしら熱いものが内面で燃え立っているみたい。その熱はわかるが心象風景がわからない。体質的に、自分が体感できないからだ。つまり、私にとってランナーというのは理解不能なことにとても熱くなってる人達であり、自分には到底不可能な速度で長時間走り続けるという点では、ある種憧れに近い感情もあるのだけど、基本的にはひとつの謎なのである。もちろん、自分のしている行為が他者にとって謎である場合も多くあることは分かっている。


 ところが、村上春樹によって走ることが淡々と語られていくと、なぜか腑に落ちてしまうのだ。彼の走る風景、彼の走る理由、走ることが彼に与えてくれるもの、走ることが肉体に与える影響と精神に与える影響。たとえばフルマラソンを走り抜くという体験が私にはないから、彼がフルマラソンを走り抜いたときの体験を書いた文章を読んでも、想像の中で分かった気になっているだけではあるけど、何か謎が解けて秘密が目の前で明かされたような、そんな気がする。自転車に乗ることと通じる部分も、いくらかはあるようだ。そう思うと今までよりはランナーにちょっとだけ親しみが湧いてくる。


とはいえ、だからと言って自分が明日からランニングを始めるかというと、そんなことは起こらないのだが。