アフターダークとカンガルー日和

 最近読んだ村上春樹の小説2冊。

アフターダーク

アフターダーク

アフターダークは、実験的作品なんだろうか。村上春樹らしいところもあるのだけど、あんまり村上春樹らしくない感じ。
突っ込みどころはたくさんあるけど、これはこれで面白いと思えるか、これはだめだろって感じになっちゃうか、どっちか。自分は後者だった。
カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和は、短編小説集。最後の図書館奇譚はちょっと長くて、彼の読者にはお馴染みの羊男も登場する。
同じ短編小説集でも、東京奇譚集にくらべると、軽くてふわふわした感じの取り留めもない話が多いような気がする。切ないのもあるけど。


ちょっと気になったので図書館で借りてスタバで読んでたんだけど、
印象的な文がいろいろあったので、twitterで140文字分だけ、
いろいろ抜き出したり。



「ねえ羊男さん」と僕は訊ねてみた。「どうして僕が脳味噌をちゅうちゅう吸われるんですか?」「うん、つまりさ、知識の詰まった脳味噌というのはとても美味しいんだよ。なんというか、とろりとしててね、それからつぶつぶなんかもあるし・・・・・・」(村上春樹/図書館奇譚)




春、夏、秋、と僕はスパゲティーを茹でつづけた。それはまるで何かへの復讐のようでもあった。裏切った恋人から送られた古い恋文の束を暖炉の火の中に滑り込ませる孤独な女のように、僕はスパゲティーを茹でつづけた。(村上春樹/スパゲティーの年に)




僕がこの文章の題を「駄目になった王国」としたのは、その日の夕刊でたまたまアフリカのある駄目になった王国の話を読んだからである。「立派な王国が色あせていくのは」とその記事は語っていた。「二流の共和国が崩壊する時よりずっと物哀しい」(村上春樹/駄目になった王国)




僕はあの時彼女と寝るべきだったんだろうか?これがこの文章のテーマだ。僕にはわからない。歳をとってもわからないことはいっぱいある。(村上春樹/バート・バカラックはお好き?)




1963/1982年のイパネマ娘は形而上学的な熱い砂浜を音もなく歩き続けている。とても長い砂浜で、そこには穏やかな白い波が打ちよせている。風はまるでない。水平線の上には何も見えない。潮の匂いがする。太陽はひどく暑い。(村上春樹 1963/1982年のイパネマ娘)




御存知のように、あしかという動物は広大な象徴性の海の中に生きている。AはBの象徴であり、BはCの象徴であり、Cは総体としてのAとBの象徴である、といった具合だ。あしかのコミュニティーはこのような象徴性のピラミッド、あるいはカオスの上に成立している。(村上春樹/あしか祭り)




玄関マットか何かになって一生寝転んで暮らせたらどんなに素敵だろうと時々考える。 しかしやはり玄関マットの世界にも玄関マット的な一般論があり、苦労があるのだろう。まあ、どうでもいいや。(村上春樹/タクシーに乗った吸血鬼)




スープ皿のまうえ三十センチばかりのところには卵型の白いガス体がぽっかりと浮かんでいて、僕に向って「いいよ、いいよ。もう我慢してないで寝ちゃおうよ」と囁きかけていた。さっきからずっとそうなのだ。(村上春樹/眠い)




しかし彼らの記憶の光は余りにも弱く、彼らのことばは十四年前ほど澄んではいない。二人はことばもなくすれ違い、そのまま人混みの中へと消えてしまう。 悲しい話だと思いませんか。(村上春樹/4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて




"我々は朝の六時に目覚め、窓のカーテンを開け、それがカンガルー日和であることを一瞬のうちに確認した。"(村上春樹/カンガルー日和

たとえ物語全体を忘れてしまっても、心に残る短いフレーズがあって、そっちの方が記憶のなかでずっと長生きする。
それが村上春樹の小説の特徴の一つだと思う。