私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集
のp.35の一部より。
「どうか御教示願いたいのですが」と彼(Qyou注:ネルー首相のこと)はクリシュナジーに尋ねた。
「私は自分の思考の内なる混乱を晴らしたいのです。何が正しい行為か、何が正しい考えかを御教示くださいませんか?」
それを聞いていたわれわれにとって、それは目覚めたインド人の精神の永遠の質問だった。
三分間余りの沈黙があった。われわれは、対話中にクリシュナジーを包む沈黙は意思疎通の一部をなしていることを発見しつつあった。それは、精神と精神との間の距離が消え、かくして精神間の直接の接触と疎通が起こる、そういう精神状態だった。
それからクリシュナムルティは、一言ごとにとまりながら、ゆっくりと語った。「正しい行為は、精神が沈黙しており、そして<あるがまま>が見られているときにのみ可能です。この<見>から起こる行為は、動機、過去から自由であり、思考と原因から自由です」
同書p.36の一部より
「不死鳥が灰から現れるように」とネルーは言った。
「ええ」とクリシュナムルティは答えた。
「生があるためには死がなければなりません。古代人たちはこれを理解していたので、生と愛と死を崇めたのです」クリシュナジーはそれから、世界の混乱は個人の混乱の投影であると話した。過去、思考としての時間に囚われた人間の精神は、死せる精神である。そのような精神は混乱に働きかけることはできず、逆に混乱をつのらすことができるだけである。人間は<なりゆくこと(becoming)>としての時間、明日への投影から自由にならなければならない。彼は<いま(now)>において行為し、かくして自分自身を変容させなければならない。
p.36の終わり〜p.37より
後日クリシュナジーは、日記帳に次のように印象を書き留めている。
彼は非常に有名な政治家で、現実的で、燃えるように誠実で、そして熱烈なまでに愛国的であった。偏狭でも利己的でもないこの人物の野心は、彼自身ではなく、ある理想、民衆のためのものであった。彼はたんなる流暢な熱弁家でも、票集め屋でもなかった。彼は自分の大義のために苦難の道を歩んできたが、不思議にも陰気ではなかった。彼は、政治家というよりはむしろ学者のようであった。しかし政治はかれにとって必要欠くべからざるものであり、そして彼の指導する党は、びくびくしながらではあったが、彼に従っていた。彼は夢想家であったが、政治のためにそういったすべてを捨て去ってきたのである。
(「生と覚醒のコメンタリー・第一巻」)
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