ある年老いたラビの願い

 マイミクさんの日記で引用されていた、ユダヤ人のジョーク、というかむしろ寓話に近いかも。

ユダヤ人は彼らが犯したたったひとつの愚行の故にこの上もなく苦しんできた。
それは「我われは神に選ばれた民だ」という考えだ。
一度自分たちは神の選民だという考えを持ったら、 他の民族に許されることはありえない。
他の民族もまた神の選民なのだから。 それにどうやってそれに決着をつけるのかね? 
どんな議論も決定的ではありえない。 誰も神の隠れ家を知らないのだから、 神に尋ねることもできない。
証人として神を法廷に連れ出すわけにもいかない。


となると、 決着をつけられるのは唯一剣だけだ。
誰であれ力のある者が正しいことになる。
力が正義だった。
何世紀にもわたってユダヤ人は本当に苦しんできたが、
苦しみは彼らを変えなかった。
実際は、そのために神の選民であるという彼らの考えは強まった。


彼らに 「あなたたちは選ばれた民だ」
と告げるその同じ人たちが、 選民はたくさんの試練を、
自分の気骨を示すために多くの火の試練をくぐり抜けなければならないとも教える。

ここまでは、下に続くジョークのバックグラウンドの解説みたいなものです。
ここからが、ジョークの部分。

私は神に祈るある年老いたラビの話を聞いたことがある。


彼はひじょうに正気の人間だったにちがいない。
彼は何年も何年も祈っていたが なにひとつ求めることがなかった。
知っての通り、 祈りとは一種の小言のようなものだ。
毎日、 朝も、昼も、夕方も、夜も、 一日に五回も神に小言を言いつづける。
神は飽き飽きしてきて、まったくうんざりしているにちがいない……。


ところがそのラビはなにひとつ求めなかった。
そうでもなければ、 出口もあっただろう。
もしそのラビがなにかを求めていたら、それが与えられて、
「とっとと失せろ!」
と追い払われていたにちがいない。
だが彼はなにひとつ求めるでもなく、ただ祈るばかりだった。
ついに神は 「なぜお前はしつこく私につきまとうのだ?なにが望みだ?」
と彼に尋ねた。


するとその年老いたラビは言った。


「ひとつだけです。
 そろそろ誰か他の人びとを選んでもいいときではないでしょうか? 

 どうか、誰か他の人たちをあなたの選民にしてください。
 私たちは充分に苦しみました!」

「選ばれた民」というアイデンティティーを持って生きるのも、えらい大変なことらしい。
ユダヤ教の教義や信仰と絶縁したユダヤ系の人達も友達にいたけれど、
彼らもきっと「選ばれた民」をやってくのが、いい加減嫌になったんだろうな〜。
自分から神を捨てられずに、神に自分達をお役ご免にしてくださいと丁寧にお願いするところが、
やはり聖職者であるラビたる所以なのだろうか。
なおユダヤ人は、こういう自分を笑うジョークを作るのが得意だそうな。
(私のような人間から見て)きつい戒律と折り合いをつけて生きていくには、笑えないとやっていけないよな。