コーヒーは食後でよろしかったでしょうか?

 飲食店で食事をするとき、「コーヒーは食後でよろしかったでしょうか?」とたずねられることが時々ある。
注文の時点から見て、飲物が出てくるのは、食事の前でも食事と一緒でも食後でも、未来のことであることに変わりはない。
未来のことなのに、「よろしかった」と過去形で訊ねられると、もしかして時間がねじれてしまったのか、
これから私がどんなに未来の行為を意志しようとも、全て過去に既に起こってしまったこととしてしか世界において表出しないのかと、
あたかもメビウスの輪の中に閉じ込められたかのような、解決しようのない不安を感じる。
珈琲を注文してこれから飲もうとする自分はおいてきぼりで、自分以外の人間にとっては私の食後の珈琲は既成事実だ!


しかし、それでも私は珈琲を飲むだろう、ありとあらゆる自分の外部のねじれた時間の流れへの反逆の決心を固めつつ。
いや、飲まねばならないのだ。くつろぎの一時というよりは外界の残虐さへの孤独なレジスタンスとして。


もしかしたら、昔の人は奥ゆかしさ故に、私が珈琲を飲むことを決めるはるか前から私が珈琲を飲むことを先に知っていたとしても、
あえてその事実を隠し何も知らぬかのように「珈琲は食後にお持ちしたらよろしいでしょうか?」と訊いていたのかもしれない。
それを聞いて何も知らなかった無邪気な私が、自分の時間と世間の時間の流れの一致に安心していたのだろうか。


何はともあれ、珈琲を、飲もう!