血と骨

 (fri)No.126 - ロイ飯田の怠惰な考察で怖いものの話が。昔言われていた「地震・雷・火事・親父」というやつ。個人的に一番直撃したくないのは雷で、その次に火事、地震、親父の順かな。焼死体になることに抵抗感があるほうなので。ただし地震は火事を連れてくるから用心用心。おいらの場合もやはり親父は後にくるが、もっと昔の時代の親父には洒落にならない怖いのもいたようだ。もうすぐ上映される血と骨は、どうやらそういうえげつなく怖い親父の話。舞台は大阪・鶴橋。作家の宮崎学氏は次のように評している。
http://miyazakimanabu.com/archive/2004/10/20041028chitohone.htm

絶望的な貧困と、露骨で重層的な差別の中におかれた場合、人は「何」をもって生きることができるのか。いや、その場合、人は「生」への欲求を「何」を通じて燃焼し続けることができるのか。この根源的な問いに対する冷ややかな回答として、この映画はある。

 この問いに対し、主人公の父・金俊平は、「力」によって生をまっとうしようとした。「力」とは、文字通り暴力でありカネである。この「力」を追い続けることが、生きる証しだと考えたのだ。

良くも悪くも安穏と生きてきたおいらなどには想像も及ばない世界である。しかし宮崎氏がこの映画を観て思い出す両親の記憶もまた凄まじい。思わず言葉を失ってしまうのである。

私の母の額には大きな傷があった。十七歳で嫁いだ母が、婚礼の翌朝に朝食の作り方が悪いと父に下駄で殴り飛ばされた傷である。些細なことで腹を蹴られ肋骨を折ったこともある。母は治療する間もなく建設現場で重労働に従事したため、骨が変形してしまっていた。在日朝鮮人であろうと日本人であろうと、社会の底辺で生きざるを得なかった者たちの宿命は過酷であった。

現在の日本社会は、再び豊かな層と貧しい層に二極分化していく方向にあると言われている。一億総中流と呼ばれた半社会主義的とすら言っていいような時代が完全に過去のものとなり、貧富の差の拡大によって、脱出の難しい貧困層が生ずれば、不条理な苦しみを生きねばならない人々がまた増えてしまうのではないだろうか。その時に、国や法律が人権を守るための手立てを取るだろうか?非常に疑わしく思う次第。