好きなことと職業

職業にして失うということ - 深町秋生のベテラン日記

好きなものを職業にできる、というのは誰もがその機会に恵まれるわけでもないので、それはそれでたいへんな幸福といえる。しかし、「もっとも好きなものは職業にしないでおく」という幸福も確実に存在する。ついこの間まで、薬屋のサラリーマンをやっていて、頭痛薬や風邪薬を作っていたのだが、べつに薬に対しては思い入れがあるわけではないので、そこで働いていても「もう薬なんか見たくもない!」という事態は最後まで訪れなかった。それと学生のとき、地元の業務用冷蔵庫の製造会社から内定をもらっていたのだが、こちらで働いたとしてもきっと「業務用冷蔵庫なんて見たくもない!」とは思わなかっただろう。

 好きなものを職業に、自分の好きなことはなんだろうか。大概が非生産的なことばかりで仕事につながりそうにない。
大学生の時は、自分は英語が好きだと勘違いしていたから、翻訳の下訳のバイトなどしたこともあったけれども、
毎日3時間も4時間も翻訳してると見事に翻訳作業が嫌になってきて、こんなん仕事にできないよーと思った。
自分が嫌にならない程度接している分には、今でも英文を読んだりするのは嫌いではない。


つまり深町さんの主張と同じく、好きなものを職業にしないでおいて嫌いにならずに済んだということだろうか。
ところがそうでもなくて、私が英語を勉強していた背景には「仕事に結びつくかも」という下心があったものだから、
仕事にすると嫌になるとわかってしまってからは、どうせ仕事にはならないし、と全然勉強しなくなってしまった。
もしかしたら、そもそも好きではなかったのかもしれない。


それから、一時期近畿二府四県とはいえ、非常に移動が連日続く仕事を派遣でしていたことがあった。
たとえば、今日は姫路、明日は和歌山、明後日は奈良、その次岸和田、と言った具合である。
元々移動は嫌いではないので、それなりに最初は楽しめてもいたのだが、段々移動すること自体にうんざりしてきて、
「ああ一日中オフィスで事務仕事とかしていたいなあ」と思うようになってしまった。休日は家でごろごろ。
やはり、深町さんの主張は正しいのかもしれない。移動のない仕事のときは休日外出多かったし。


私の知人にも、元来は外食好きなのだが、一度外食産業でバイトしてから、働いてる人の苦しみが想像できすぎてしまい、
シンプルに飲食することを楽しめなくなってしまった人がいる。違う仕事にうつることは可能なわけだが、
今までのように、たまったストレスを楽しく外で飲食することで解消することはできないかもしれない。


好きなことは仕事以外の場所でできるように、残しておくべきなのかもしれない、少なくとも、
仕事というだけで、ものすごいあれやこれやの面倒くさいことが発生するこんな世の中では。


 ただし、後半部分については、納得しがたい部分もある。
私は思い入れのない仕事をいくつもしてきたけれど、やっぱり見たくもない程嫌にはなるのである。
事務職のときは土日にエクセルとか見たくもなかったが、かといってエクセルに思い入れはないのだ。
表計算なんか地球から消滅してくれても良いと思ってるくらい。
営業職のときは、土日には電車内で目の前にスーツの男性とかいると、なるべく離れたくなる。
せっかく土日なのに、何をスーツなんか着て俺の前に立つんだこの野郎、と思うが、
相手は何も悪くないので座った席を放棄して、どこか仕事を感じさせる人のいないとこまで逃避するのだ。


それどころか、休日には職場の半径1kmくらいには近寄りたくなくなるのである。
職場が市の中心部だったりすると、土日にはわざわざぐるっとまわってそこを避けてランチの店を探したりとか。
間違って職場のビルを見てしまったりすると、損した気分になるのであった。
その当時の職場は、社会的必要性はある職場ではあったが、思い入れといったようなものは全くなかったのに。


だから、好きなことを仕事にしないほうが幸せなことって結構あるんじゃないかとは思うけど、
思い入れのないことを仕事にしても、やっぱり仕事は仕事で凄く嫌になったりするものなのだよ、というのが
私の結論。自分が怠け者であること以上のことを何も語っていないような気がするが、気のせい。