精神科医は腹の底で何を考えているか

  書棚で見つけて、「精神科医は腹の底で何を考えているか」というタイトルが面白そうだったので、読むことにした次第。
私は精神科医に行ったことがないので、精神科医は自分にとって、基本的にドラマや小説やノンフィクションの本や漫画やネット上の文章や、精神科医に通っていたり通っていたことのある知り合いの話の中に登場する存在でしかなく、「腹の底で何を考えているか」どころか、表面的レベルにおいてどんな言葉を発する人達なのかも、ほぼ全く知らない。

例外として、これまでに何人か知り合いになったり友達になったりした人の中で、たまたま仕事が精神科医だった方が数人いたくらいで、もう前世紀の話になるけど、

「そんな(テストでの)失敗くらい誰にでもあることだよ。私だって鬱の薬と統合失調症の薬をついこないだ間違えて出してしまって悩んだところだ。人間みんな失敗するさ。はっはっは。あ、薬の話をしてもわからないか。要するに、間違えちゃいけないことなのですよ。」

といった内容の、後から思い出すと少し背筋の寒くなるような励ましをいただいたのは良い思い出。なおその方は、現在は既に医師を引退されていると聞いているので、これから精神科の受診を考えておられる方はご安心を。

でもその数名の知り合いの顔を思い出してみると、確かに皆すぐに腹の底が読めるようなタイプの人達ではない。一見クールだったり爽やかだったり、あるいはむしろ感情的だったりするように見えて、表に出している表情とは別の思考が頭の中で進行している感じで、それは悪だくみとか腹に一物あるというのではなく、無邪気な内面の表出が許されないお仕事を日々こなしているとこうなるのかなと思わせるものでした。

そういう訳で、自分にとってもやっぱり精神科医の腹の底って謎だと気づいた。なかなかキャッチーな良いタイトル。

 本の構成は、
第一章 赤ひげ医師・熱血医師・愚かな医師
第二章 相性ということ
第三章 技術と人柄
第四章 優しさと支配
第五章 物語・心・世界
第六章 偽善と方便
第七章 幸福・平穏・家族
となっていて、「百人の精神科医」が本全体を通じてあちこちに登場する。彼らは、実在の人物そのままであったり、性格の一部の誇張であったり、著者自身、あるいは著者の一部分であるという。百という数字のもたらす「あざとさ」は、精神医療における千態万状あるいは得体の知れぬ混沌ぶりを表徴した結果だそうだ。

第一章は、まずお薬のお話で、「心が雨漏りする日には」に出てくる、中島らもの処方箋について批判的に述べられている。
一言でいうと薬が重すぎるという話で、らもが経験していた強い副作用である、失禁やふらつき、目の調節障害について担当医の責任を問いたくなると強い調子。しかもらもの場合はほぼ10年間薬剤の調整や見直しは行われず、同じ処方を服用していたそうだ。
(Dr.2ーろくに診察もせずに処方を出して患者を副作用で苦しめる医師)と文章から強い怒りが感じられる表現。
中島らもさんは神戸のライブハウスで階段から転落してお亡くなりになった訳だけど、もし薬の副作用である「ふらつき」がなかったら、あるいはもっと軽かったら、もしかしたらまだご存命で時々面白い本を書いたりしてくれていたんじゃないだろうかと、勝手な想像をしてしまった。
それから、処方の仕方もいろんなタイプの医師がいるという話が続く。料理のレシピにたとえた表現がわかりやすい。p.26のヤブ医者の処方箋の話なんか、とても怖い話だけど。体重300kgある患者にこそふさわしい量を出してしまう医者もいるそうだ。
その後の、赤ひげ先生みたいなタイプは、精神科医としてはちょっと問題があるかもしれないというところも、大事なことだと思う。

第二章は、より内省的な雰囲気の内容。医師と患者との人間関係。精神科医に通ってる方が読めば、お医者さんの気になっていた振る舞いの理由がわかったりするかもしれない。

第三章は、技術と人柄ということだけど、ドラマにあるような、ビルのてっぺんから飛び降りるぞーというような人の説得を突然任されても、多分うまくいかないだろうなという話が最初の方に書かれている。病院があって、白衣の医師と看護師がいて、といったお膳立てというか仕組みがないと、精神科医の説得は上手く行かない可能性が高いとのこと。あと、DSMへの批判なんかが興味深い人もいるかもしれない。ICDの方が余程バランスが取れているというのが著者の意見。
この章の最後の、
「人の行き交う路上にぽつねんと立つ精神科医は、まるで無力である。彼に比べれば、風俗の客引きや寸借詐欺師や美人局といった人たちのほうが遥かに生き生きと世の中を泳ぎ渡っている。それが世の中である。」
という一文には、そこはかとない著者の諦観が感じられるような気がした。

第四章の優しさと支配も、やはり医師と患者のやりとり、人間関係のあり方ということになるのかな。ここでは精神科医の現場での巧みな交渉術の片鱗が見られる感じ。私が子どものときには、気が狂うと黄色い救急車がやってきて精神病の人を拉致同然に連れていく。精神病院には一度入ると二度と出られないといったような都市伝説が流れていたけれども、あれは本当に都市伝説に過ぎなくて、実際には医師は人間的なやりとりの中で努力されているのだなあと思った。

第五章、物語・心・世界。ここでなぜか著者は食堂で生姜焼きが牛肉かどうかをたずねたサラリーマンに物凄い違和感を感じている。そもそも牛肉の生姜焼き定食なんか存在するのか?KYじゃないか?世間知らずじゃないか?と言わんばかりの論調だ。生姜焼きというものは、豚肉と決まっているだろうが!という勢いなのである。
しかし、ちょっとぐぐってみると、牛肉の生姜焼きをメニューに載せているレストランもあれば、クックパッドへの牛肉の生姜焼きレシピの投稿も結構あるのだが、もしかしてそれは関東と関西の違いというやつなんだろうか。とりあえず、ここのお店の牛肉の生姜焼き定食は美味しそう。枚方市駅近くのお店。

r.gnavi.co.jp

結局、その話は自分が理解できない患者に出会ったときの精神科医や、著者自身が自分のことを世間知らずであると認識しているという話になっていくのだけれども、まあ生姜焼き定食は豚肉に決まっていると思っているのだから、確かに世間知らずなのかもしれないと思ったり(豚肉の生姜焼きを出す店のほうが数が多いとしても)。でも後半の物語とか妄想の話は深い割にわかりやすくて、いい感じ。

第六章 偽善と方便。これは結構シリアスで、前あった100%の能力が99%になったぐらいで済んだとしても、その1%が重大で人生が変わってしまうということもあるというお話。精神疾患において、「治る」とはどういうことなのか。風邪や肺炎が治るように治るのとはちょっと違うということ。


第七章 幸福・平穏・家族 これも第六章からの続き。一例として、入院してきたエリートサラリーマンが、発想が凡庸になってしまって、もう以前と同じように仕事ができない場合、どうしたらいいのか、どうなっていくのかというようなことが書かれている。微妙なものの欠落の恐ろしさ。幸福とはなんだろうということ。100人目に登場する医者は、(Dr.100-倫理や哲学の領域に属す問題と現場で向き合いつつも、それに答えを出せぬまま診療に忙殺されている医師 )だった。

 人は知らないことを自分の想像で埋める癖があるので、精神科と精神科医の心の中で何が起きているのかということを上手に描写したこういう本があるのは、精神科への偏見に陥ることを避ける上でも、とてもいいことだと思った。

新書300冊計画の46冊目でした。

精神科医は腹の底で何を考えているか (幻冬舎新書)

精神科医は腹の底で何を考えているか (幻冬舎新書)